昭和四十三年六月十八日 朝の御理解
先日から、「金」という、金光教の「金」という字。どうして金光教にはこの、金という字をたくさん使ってあるだろうかと。主神である中心であるところの主、神ですね、主神であるところの神様も天地の神様とは言わずに、天地金乃神とこういわれる。教祖の神様も、金の光、金光教祖、いわゆる金光様と申し上げる。どうしてこんなに金の字が多いだろうか。所謂魅力的な字ですよね、金という字ですから。ですから、金光教の信心は金儲けの信心だという風に誤解しておる人があるけれども、これはあながち誤解ではない。人間の幸せを決定づけるのは心でありますけれども、その心に、先ずなんというても金、ですね、人間の幸せの、絶対必要なのがお金である。と言うように、金という字についての解釈を頂きましたね、先日。
昨日は、その次の、金光教の「光」という字、光ということについて頂いたですね。昨日は光。信は力なり、と隅田先生がいうておられるが、力は光という風に頂いた。
今日は、金光教の「教」という字について頂きます。金光教というのは、教えと書いてある。金光教教典と御座いますでしょう。金光教教典の教の字。これはあの、例えば、それぞれに専門専門がありますね。商業学校、工業学校、農業学校というようにですね。ですから、それぞれの学校を目指すからにはそこの学校で、工業なら工業、農業なら農業、商業なら商業の学問的なことを勉強する。専門のことを言わば専攻する訳で御座います。様に、金光教の信心によってお互いが助かる、金光教の信心によって救われようとする、本当に金光教の信心によって幸せにならせて頂こうと、願わせて頂くならばね、金光教のね、教という字を分からないかんです。
金光教祖が教えられた、所謂教えというものをマスタ-しなければならんのです。どうでもそれを専攻しなければならん。何様を拝む、かに様を拝むというのとは訳が違う。ですから私は、金光教という、言うなら専門学校に、皆さん通うておられるようなものであるから、その専門の教えられること、教えを身につけなければ、金光教の信心を頂いておる、金光教会に通うておるということが、無意味になってくるのです。
商業学校を卒業したけれども、帳簿の付け道も分からん。算盤いっちょ弾き切らんというなら何にもならんのと同じことですよ。先ず商業学校へ行けば、算盤の持ち方から、所謂帳面の付け方から、商人なら商人としての知らなければならない知識を専門に教える。だから、それを専門にそのことを勉強しなければならん。農業学校に行ったら、やはり農業に対するところの知識をですね、一切の上にも、学問の上にも身に付けていかなければならないように、そのことに専攻する。ですから、私はね、金光教という、言うならば学校に皆さんが通うておられるようなものであるからね、その、教祖が教えられたみ教えというものをね、所謂金光教の教の字ですよね、この教えを先ず、本気で心に、形に、身に表して行けれるだけの教えを身に付けなければいけない。だから、金光教の信心は金光教の教祖の生きられ方とでも申しましょうか、それを身につけて日常生活の上に、所謂、私という人間が金光教型になってしまわなければ、本当の金光教の学校を卒業したとか、金光教の信心を頂いておるとか言えないことになる。
ですから、それだけを専攻すればいいのです。農業学校にいっとるものが、例えばね、商業のことが分からなくても良いように、金光教の信心をさせて頂くものが金光教のことを分からずしてはおかげになる筈がない。金光教をお互いが選ばして頂いたのですから、その金光教の信心を頂くということは、その教えを頂くということである。金光教祖の教えを頂くということなんです。
昨日の一時の御祈念のときでしたね。御神誡を一か条づつ読ませて頂いております。御理解を頂いて、一口、昨日は申しましたですね。「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」を申しましたね。これは、地の恩を知れば、自ずと天の恩は分かるのだ。と言うて、一言申しました。あらゆる宗旨宗派が天の恩ということは非常に強調して説いたんですね。けれども、地の恩というのは説かなかった。いや、地というのは、穢土、穢れたもの。大地は汚れたものというような表現さえしておる宗教があるくらいです。天が清らかなものならば、地は汚れたものというような、天が父なら地は母だと、もう絶対のものとして説かれた。しかも教祖はその大地の信心を先ず体得された。そして、自ずと天の恩は知られたという感じである。同じ事。私共が大地のご恩徳というものをですね、本当に分からして頂いて、そこで、私共が、何と言うても大地の心を心としなければならないということになる。大地のご恩徳を理屈で分かったんじゃいかん。だから、理屈でも、言わば勉強させてもらって、大地はどのような働きをするものかということをしらなければいけません。そして、大地の働きというものを自分たちの働きの上に頂いていく。大地の心を自分たちの心の中に頂いていく。と言うことでございましたですね、昨日の昼の御祈念の後に、「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」ということについて、昨夜はそれを、もう実に具体的に頂いた。昨夜のご理解に。そこんところを私、一寸申し上げておる訳で御座います。
今日は、なぜ私がそこんところを前置きに言っておるかというと、金光教という、「金」という字についての解釈を先日頂いて、昨日は、金光教の「光」という字、光ということについての解釈を頂いた。今日は、金光教という、この「教」。教えということについて今日皆さんに聞いて頂こうと思うておる。それは、教えというのは、天理教の教えでもなければ、キリスト教の教えでも、もちろん、仏教、神道の教えでもない。どこまでも、金光教の教えであると言うことである。それは、商業学校に行ったら商業を専攻し、農業学校に行ったら、工業学校に行ったら、その、やはり専科をマスタ-する、身に付けていくということが当然のことであるように、私共は、どうでもそういう意味合いにおいて、金光教の、「教」をですね、所謂、み教えを私共はどうしても、身に付けなければいけない。そして、まず第一に「天の恩を知りて地の恩を知らぬこと」と仰るその、地の恩というか、地の大徳というものを私共が身を以て体得させてもらう。大地の心を心としての生き方。教祖の御信心の、教祖の御性格から言って、確かにそういう感じが致しますね。もうどろのようなお方。どんな汚いものでも、どんな難儀な問題でも、もう成り行きそのものを、黙って受けられた。大地の心とはそういう心なんです。そして、自分をいよいよ肥やしていくだけではなくて、そこに入っておる木なら木、野菜なら野菜、それにですね、それを自分が同化して、浄化して、それを上のほうに養分として送っておられる。そういう働きができるように私共はならにゃいけんのです。
そこで今日は御理解八十八節を見てください。「昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思うとき、鏡を立て悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」とあります。
これは、嫁入りをするときという、嫁入りをするときだけではない。信心させて頂くものの全てがです、本当にお嫁にでも行って、その家の家風、家庭の雰囲気、それからその、家の家風と言ったものの全然違うところへ行く訳です。ですから、新たな、新な心で行かなければ嫁入りは出来ません。行ってから自分流にあちらをなんでんかんでん改めさせようというような思い方で行ったんでは、家の中が治まるはずがありません。そこで、やはり勝手が違う。所謂苦しいこともありゃ、悲しいこともあるけれども、そういう時に、苦しいなら苦しい、悲しいなら悲しいという顔をしとったんでは、家は治まらないというのである。
ですから、信心させて頂く者の全てがです、第二の人生と言われるその結婚にでも踏ん切りを付けるということ。嫁入りをする時、またはもらう時のあの新な気持ちというのが信心には先ず必要である。そして、私共が教えという鏡を頂く訳なんです。
ですから、私共が、その教えというものを先ず、一通りマスタ-しとかないと、その教えという鏡を前に立てることができん。もうそのことにですね、そのことに専念しなければいけんのです。どのような場合でも、どのような時でも、例えば心が寂しい思いをする時、心が波立って来る、心が腹立ってくる時、教えの鏡を立てさせてもらうと、これは腹かくことじゃなかった。これは悲しい思いどころか、かえってお礼を申し上げねばならないことであった。というようにです、はっきり答えが出て来る。だから、悪い顔をすることもいらなければ、成程これで行くならば、家も治まるだろう、世の中も治まるだろうというような、あり方が自分の心の中にはっきり、教祖のおかげを受けていかれた通りのあり方というものが、ここへ、私共がそれを現していくことができる。
それを、私たちがですね、だんだんそういう稽古を本気でさせて頂いておると、いつも、どこででも、神の姿を見、または、神の声を聞くことが出来る。ですから、その神の姿に、または神の声に導かれながら有難い生活を続けて行く事が出来るというのが教祖の御信心である。
いつも、この成り行きというか、自然の働きそのものが神様のお言葉であると言う風に頂くんですけども、昨日、私、霊神様の前にお供えしてあります花をご覧下さい。あの花が物を言うとる。昨日一日のことを。こちらからしろ-く見えますのは、あれは杉です。白い杉、黄金色をしとる杉です。杉の枝なんか、私はあんまり好きじゃない。昨日の御理解の中にもあったようにね、冷や冷やした一日であった、昨日は。
御理解が終わったら、一番に、早速お届けがあったのが、むつやの信司さんがお参りしておりましたが、今朝の一時なんぼにおばあちゃんがお国替えになられたというお届けがあった。ですからね、これが続くんですよね、椛目の場合。ですから私、今日は冷や冷やしとった。何故かというと、私が、例えばもう難しかろうというような病人をたくさんここにはお届けしよりますからね。その人たちの中に、もう親先生にお願いして助かるもんと思うて入院したり、寝たりしておる人達の上にまで。いろいろな思いが、こちらが本当な信心がでけとらんもんですから、そういう風に神の声をそこに聞くと、誰がどういう風に言うて来るだろうかと思うて、昨日は、一日、所謂冷や冷やした一日であった。むつやのおばあちゃんの場合なんかはもう、実に神ながらな事であった。陽子さんがずう-っと泊まり込みでお世話させてもらいよりました。それこそ九十一にもなられるのですから、もう眠るような大往生だったそうですね。只問題は、子供が早死にしてしまったですから孫の手にかからなければならないということは、おばあちゃんとしては不本意であろうけれども、これは神様が本意であるのだから、実は。もうこうでなければむつやが立たんのだから。それを最近のむつやのことを考えると分かるように、神様の心次第で有っておるのだからね。昨日、夕方陽子さんが中で、お礼に一寸出て参りました。「もう先生、万事万端の上に」、今日がお葬式だそうで御座いますが、「もう万事万端の上に神様のお働きを頂いておることを感じます」と言うて、昨日お礼に出て参りましたがね。
ははぁ、お花に杉が使ってあるなんてどういうことだろうかと思いよったら、そんな風だった。しかも白の杉。おかげを頂いてから冷や冷やしながら、薄氷の上を渡るような思いで一日を過ごさせて頂いてから、夜の御祈念に入らせて頂いたら、矢継ぎ早に二人お届けがあった。永瀬さんが今日参っておられませんが、永瀬さんの奥さんの妹さんのご主人が急に亡くなられた。で、明日の朝お参りが出来ないからと言うて、昨夜参ってみえて、そのお届けがあった。はぁ、これで二人。二人続くと三人続くから。
そして、夜の御祈念にいよいよ、私がここにお届けをさして頂こうと思いよったら、ちょうど妹が参りましてから、今日は先生、善導寺でこういうことでしたと言うて、これはここには関係のないことだけれども、そのことを私にお届けともなしに話すんですよ。大変立派な人物だったそうですがね、有る事情のために首を括って亡くなられたというお届けじゃないけれども、そのことを聞いて、はぁ、もうこれで3人続いた。そんな気だったんです。ところが実際はですね、それが関係があったのには驚きました。御祈念が終わってから。青木さんという方だそうです。まだお若い。久留米の佐田さんが本店のほうの、佐田さんをお導きして今、昨夜で三回目ですか、お参りが。それこそ、まぁだ、商売人の方ですから、食うか食われるかと行ったようなことはいつもあるんですけれども、食うか食われるかというか、もっと深刻な問題で佐田さんお導きになって、今お参りになっておられるんです、真剣に。
昨日も、もう御理解の半ばに参ってみえました。その時に私は、御理解の半ばにです、今言うその、大地のご恩徳ということについて話しよった。しかも、その今聞いたばかりの青木さんの話を交えてさして頂きよった。佐田さんと二人ここへ出てみえてから、もうそれこそ赤子の、子供のように声を上げて泣かれる。頑丈な立派な方です。それこそ久留米の佐田さんですからね。何だろうかと思ったところが、「先生、只今お話の中にありました青木君は、私の無二の親友で御座います。商業学校時代から」。久留米、久商出だそうですから。もうそれっこそ、親戚以上という、とにかく無二の親友であったと。「それが先生、今日本人から電話が掛かって参りましてね」、それも泣きじゃくりながら、お届けでした。「どうしても自分はもうこの世に居れない。あんた宛に遺書を書いといたから後はよろしく頼む」と。まぁ冗談に言よると思いよった。「先生もう本当に遅なしましたぁ」ち言うのが一番口でした。本当にあのときに私がすぐに行って、どうしてここにお導きをしなかったじゃろうかと。ここにお導きしておれば、私が今度のああいう大きな、大変な問題であっても、お話を頂けば心が落ち着くのですから、青木君から電話が掛かったときにすぐ、それから何時間後にもう、何と言うですかね、自分方の倉の中だったそうですが、その、いつも奥さんが持っておられる鍵をその日に限ってご主人が持っておられた。
もうそれこそ、ここで、独句(どっく)されるんですよね。「もう残念、こげな残念なことはなかった。こういう神様を私が知ったばかり」ね。だからね、「後のことを頼むと言うとりますから、後、どうでも家内、子供が残っておるからこれなりと導いて、助かってもらわにゃ、私は青木君に対して相済まん」と言うてここで泣かれるんです。皆さん本当に、お導きはね、本当に悠長じゃいかんと思いますね。この人に助かってもらわないかんと思うたら、本当に、早速そこに、神様のご深意がかけられて居るのですからお導きしなきゃならん。そういう深刻な、自分は聞いたからね、自分は信心で助かり掛かろうとしておる、そのことだけでも話してですね、青木君を導きたかったんだけれども、悠長に構えとった。それが、この取り返しのつかないことになったと言うて、昨日言うて居られました。
と言うように、これは余談になりましたけども、私共は信心させて頂いておるのに、教えを一通りマスタ-させてもろうて、そうすると、そのようなことがいつの間にか身についてくる。そこにもここにも、神の声があることが分かる。「はぁ、これで、今日一日の冷や冷やが三人続いた」。「そんなことでしたか、今晩の御理解の中にも出てくる、しかも、それがあなたが、親戚以上に密接な関係をもっておられたあなたが、その話を聞きおうて、その話をここに、私がお取次ぎをさせて頂こうとは神ならず共知る由もない」ですけれども、私共が、いかに実意を以て人の難儀が助かることのためならすべてをなげうってでも、今にでも飛んでいってお導きをするべきである。また、するべきであると私は思う。そういう取り返しのつかないことにも成りかねないのですから。そして、「青木君に信心があったなら、こういうことはなかったろうに」と、又、さめざめと泣かれるんです。もう、私まで貰い泣き、佐田さんまで貰い泣き。本当に信心の有るものとない者の違いをここに感じますがです、信心と言うても、お互いが金光教の信心をしておるんだと、金光教の信心をしておるから、金光教の教。その教えというものを、鏡を何時でも立てられるだけのおかげを頂いておらなければならないということです。それが立てられないならです、信心は頂いておっても、金光教の学校に通うておっても値打ちは無か。頼みにくるときだけ頼みにくると言ったようなことでは。金光様の信者のうちには、まだはいっとらんようなもの。
そこで、今日八十八節にありますように、これは嫁入りするもんだけではない、私共が、教えというものを何時も前に立てられる、何時でも立てられるように教えというものを深く広く心の中に頂かせてもろうて、それに取り組むことが信心。それに取り組むことが金光教の信者であるところの、これは当然、当たり前なんで有る。商業学校へ行って商業の全てのことについて身につけるように、金光教に通いだしたら、金光教の教えのすべてが、私共の生活の全ての中になからなければ金光教の学校に通うて居るとはいえないでしょう。
昨日、私、休むときに家内と二人話したことで御座います。「どんなに考えても、お母さん、とにかく、私が言う成り行きを大事にせよということを言うが、成り行きをもっともっと大事にせにゃいかんばい。私たちがそこんところに焦点をおいて、今日までおかげを頂いてきたが、今日一日起こったことの、大きな問題を三つ、四つ家内と話し合って、この問題だって、この問題、この問題、あのときにあの元をもし私が疎かにしとったら、こういうすばらしいことになってこなかっただろう。」この三つの問題は私にとっては、大変な有難いおかげのことだったんですよ。それがです。どの一つだって、その元というものをですね、普通のものならば疎かにする。おそらくその時に私が教えの鏡を立てていなかったら、それはもう邪魔物にしとったに違いない。けどもその時に、言わば、内容を申し上げられないのが残念ですけれども、その時に私が、その大元の、もう何年前のどの話もこの話も、それが繋がりに繋がって、もう本当にこういう素晴らしいことに今日成っていこうとして居るということが、「お母さん、お前考えて見れ。どげん考えたっちゃ不思議で不思議でたまるまいが、これは成り行きを私が大事にしてきたからこういうことになってきたつよ」と言うて、話したことで御座いました。その時に、この問題を、そんな問題を受け入れてから、お父さんどうしなさるですかと、例えば、家内が言うような問題であった。それを、それは受けていかないかんぞ。面倒がっちゃならんぞ。ここを大事にして行かないかんぞ。というて大事にして来たことが、こういう素晴らしいおかげになってくるとは夢、それこそ知らじゃった。また、そういうことを当てしとった訳でもなかった。もしその時に教えの鏡というものを立てていなかったら、家内が言う通りに、「本なことじゃんね、ほんなら断わろうか」ということになっとったに違いはない。もうその一つ一つがです、その一つの中には、むつやの問題も御座います。とてもむつやのことの、例えば、むつやがご神縁を頂いて十八年間のことを思うて見ると、もうそれはそれはどうにもこうにも出来ない。この内容を逐一ここでお話がでけるなら、みんなが「本当に条件に及ばん」というだろうと、言うて話したことでした。それがなら、一番はじめの元であるここんところを私が疎かにしておったら、今日のむつやはなかった。 丁度昼、原さん達が夫婦でお祭りのお礼に出てみえました。それでもう、下がっとりましたから、あちらでお茶でも上げながら、原さんとそこで話したことでした。これは原さんところの話をしたことでした。「本なこてこげな話をのうや、原さん。みんなに細々言うて話せるなら、もっと素晴らしいんだけれども、これは、私と原さんと神様しかしらん事じゃけん。話もでけんけれども考えてみれば見るほどにおかげを頂いてきたことじゃ有るのう」と言うてから。その時に、このことをお粗末にしておったら今日のこのおかげに繋がっていなかった。
例えばここにご神縁を頂いていなかったら、例えばここに久富繁雄さんが居られるが、久富繁雄さんとてもそうです。あん時の問題、そりゃおかげ話はたくさんあるけれども、こういうとき、これはもう、親先生と神様だけしかご承知じゃないと言ったような、おかげを頂いてきておると言うことが、あの時だって、ここんところを私が粗末にさせておったら、現在の繁雄さんはなかった。そこんところをさぁ、大事に頂きなさい。そこんところで腹立てたらつまらんばい。さぁ神様任せ。と言うてその、言うて来たからおかげ頂いてきた。その時、私が教えの鏡を前に立ててお取次ぎをさせて頂いておるから、間違いなくお取次ぎができて、今日ではおかげを頂いておる。これはみんなそれが言える。 いかにですね、私がね、これは嫁入りするものだけではない、みんなが教えの鏡を何時も前に立てさせて頂いて、そこから間違いのない道を、こりゃ当然、金光教の信者として当たり前に、そこのところに取り組んでいかなければならないかということを、今日は皆さんに強調したい訳何です。
それがね、この今日の幸せに繋がる。それが今日のおかげの元になっておることになるので御座いますから、どのような場合、どのような問題でも、それを教えの鏡によって、それこそ大地の心を心として、自分の心が豊かになっていく根肥やしにするだけではなくて、それを上に送ってやれれるような、ゆとりの有る私に成らせて頂くおかげを頂かなければならん。
そこに、私は「金」の字も、「光」の字も頂けていく。人間の幸せの条件というかね、「光」を頂く。その光には影がつかん筈がない。それにはね、教えを大事にしなければならん。その教えを身につけていかなければならん。何時もその教えを鏡にしなければならん。そこにはね、楽しい一つの、。 昨日ね、山口の長田先生が参ってみえてから、こういうお知らせを頂いておられる。
『田舎金光大神の言う通りにしておけばおかげになる』と頂かしゃった。田舎金光大神ちゃどう言うことじゃろうか。と思うたら、『村上佐一』と頂かしゃった。村ということは、やはり田舎のことでしょう。上ということは上という字が書いちゃるから神様のこと。佐一ということは、ここは御結界が左、人偏に左。はぁこれは合楽の先生のことばいなと思うた。田舎金光大神。確かに私は品頃ないことおびただしいから田舎金光大神でしょうね。しかもね、田舎金光大神の言う通りにすれば日に三万円づつ、給料を渡すという意味のことを頂いた。そして、月には九十万に成るぞと仰った。お夢のなかで。それで、その意味が分からん。三万ということは参満たい。参というのは参るという字が書いてあるじゃないの。満はみつると書いてある。田舎金光大神のいう通りにすればおかげになる。これはね、古賀先生。古賀先生がお母さん。あの人どんが親子のこともこの中に含まれておる。あの人たちのね、言うちゃならんけれどもね、自分たちの信心では絶対おかげにならん。田舎金光大神が言う通りしなければ、古賀達の道は開けんと頂いた。しかも、田舎金光大神が言う通りすりゃね、必ずおかげになる。しかも日に三万円づつ、月には九十万円になるぞと仰った。
皆さんはこうやって田舎金光大神の教えを間近に頂いておられる訳です。だから垢ぬけはせんけれども、そこには、何とも言えん、おかげだけは頂かれるのである。
最近、最近じゃない、昨日・今日、一昨日から夏の修行が始まっております。特に一時の御祈念なんかは、もうそれこそ、何というでしょうか、一つの熱気というでしょうか、もう、本当に雰囲気の中に、あれだけでみんながおかげ頂く。もう、話を聞いて助かる道と言われるけれども、あれなら話を聞かんでん助かる。いわゆる御祈念力。合楽に一番欠げておるもの。これは御祈念力。けれどもその御祈念力が先になるとですね、御祈念力だけ、拝むことだけでおかげ頂いたらですね、所謂、今日の、私が言う教えを鏡に立てると言った本当のおかげになって来ないのです。そういう教えを前に立てて、鏡に立てての信心がこういうものであることが分かって、その上に、今一時に、言わば神習させて頂いておるところの御祈念の稽古というなら御祈念の稽古がですね、御祈念力、あれには力一杯の力をあそこに出させてもらう。神様に一生懸命の御祈念をさせてもらう。これはもう絶対おかげになるです。これは但し、おかげに直通するです。だから、それでは危ない。ですから、合楽の場合は教えというものが中心になり、そして、それに欠げておった、これは私の若いときの信心。言うならば、私がこうしてお取次ぎさせて頂く以前の、私の御祈念というのはそれこそ物凄かった。今ここで若先生が先唱させていただいとる様に、それこそ神様に噛みつくような勢いで御祈念させて頂いたんです。大祓いだって一巻以上は上げんということになったんですけども、それこそ五巻も十巻も、それこそ続け様に上げさせて頂いた。もう声は何時も枯れ通しでした。だからですね、神様を揺さぶるようにしてから頂くおかげではありますけれども、おかげを頂けることだけは間違いない。だから御祈念力はどうでも身につけなければいけないのです。と同時に、今日私が言う教えというものを先ず身につけてからの御祈念力でなからなければ、言わば危ないということ。
全然、例えば御理解のない教会でもね、非常に御祈念力の強い教会では、御祈念力だけで人が助かっとるですどんどん。それこそ御祈念力だけで助かるというならですね、立ち所に助かっていくです。だから、実を言うたらおかげが早すぎるごたるです、本当言うたら。けども、合楽の場合は教えというものが先ず、いつも中心であって、しかもそれをたたき込むようにして頂いておりますから、皆さんが間違いないでしょうけども、そういう教えを頂いていくことだと。御祈念力を合わせて身につけていくというおかげ。ね、頂かなければならん。
今日は特に教えの、ただ聞くだけじゃいかん。それを本当に、皆さんは金光教の学校に通うておるのだから、金光教の教祖が教えられた、それの専科。その専門のことを一応は勉強して、それを身につけなきゃいけん。それは商業学校行ったら商業の学問を身につけるようなもの。工業学校行ったら、農業学校行ったら、その専門専門の学問を身につけるように、私共が教祖の教えられた御教えを本当に身につけていくということをまず第一にしなければならん。でないと、それがいざという時の鏡として役に立たない。それでは、言わば金の字にもならなければ、光の字にもならない。ね、それが頂けて初めて、教。金光教の信者としての値打ちが、そこからでけて来るんですよね。どうぞ。